今日は家付き娘はんのお話どす。家付き娘て、何や?て思わはるお方もようけいたはるかて思いますけど、家付き娘ちゅうのんは、花街ではお茶屋はんや置屋はんの実の娘はんのことを云うのんどす。今でこそ舞妓ちゃんにならはる子は北は北海道から南は九州まで(何故か沖縄の子はいたはらしまへん)日本中から集まって来てはります。昔は地元、それもお茶屋はんとか置屋はんの娘が当たり前のように舞妓で出てたもんどす。お母はんも元芸妓はんちゅう、いわゆるサラブレッドの舞妓ちゃんが結構いたはりました。今ではごく少数になってしまいましたけど。
お抱え(他所から置屋はんへ来て仕込みはんしている子)と比べてどこが違うかちゅうたら、先ず家持ちの子は雑用とかはせんでもよろしおすさかいに、普通の仕込みはんに比べたらそら楽なもんどす。中には家付き娘でありながら、わざと他所の置屋はんへ仕込みに出さはるお母はんもいたはりますけど。苦労を覚えさすために他所のご飯を我が子に食べさす、ちゅうことは中々出けることやおへん。大抵は自分とこへ置いて(注)きずいにさしてはります。ひどいとこやと食べもんまで他の子と差をつけるとこもあったらしおす。
お稽古から帰ったら後はみんな自分の時間どっさかいに。テレビみたり、本読んだりしてるとこを、お稽古から帰っても雑用に追われる子から見たら「なんで、うちだけがこんなことせんならんのや」て思いますわなぁ。けど、そんなことで文句も云えしまへん。そうやってその子は、世の中みんな平等やない、ちゅうことに気がつくのんどす。
他所のお母はん連中やとかお姉さん連中とも昔から顔見知りどっさかいに、一から顔を覚える必要もおへん。舞も小さいときから稽古してますさかいに、そこそこには舞えます。先輩のいじめに会うことも少のおすし、少々やんちゃなことしても、○×はんの娘はんやさかいに、ちゅうことで周りも甘やかしてくれはります。結果、どんな妓になるかは大体想像がつきまっしゃろ(笑)
けど、みんながみんなそんな妓になるのんやおへん。いえ、殆どの家付きはんは、自分が家付き娘ちゅうことをハンディにして、お抱えさんよか倍も気張って稽古したはります。「この前のお稽古んとき、うちと△□ちゃんとがおんなじとこ間違うたんどす。けどおっしょはんはうちだけ叱らはって、△□には叱らはらしまへん。これて差別やおへんやろか?」そう、家持ちはんやと簡単には辞めたりは出来しまへんさかいに、おっしょはんも少々きつう叱っても大丈夫て思うてえはんのやも知れまへん。それとも、あんたらは生え抜きなんやから他所から来た妓に負けてどないしますのえ、ちゅうことどっしゃろか。
また、母親が元名妓とか云われる娘の大変さは、一茂はんを見てたらよう分かりまっしゃろ。人より上手に舞えて当たり前、人と一緒やと「あの人、何してはんにゃろ」、人より劣ってたらそれこそ相手にもして貰えしまへん。このように、一見楽そうに見える家付きはんどすけど、その裏では人並み以上に気張ってはんのどっせ。そういう家付きはん、うちも何人か知っとります。
※きずい--気随・わがままなこと
さて、今回は「ご飯食べ」のお話どす。幼児ことばみたいで、ええ年したおっさんが使うのんはちょっと抵抗がおすけど。で、どんな意味やねん?て、どすか。「ご飯食べ」ちゅうのんは芸・舞妓ちゃん等を、お花代つけて食事に連れてってあげることなんどす。勿論、おかん連中には花代はいらしまへんけど(笑)
「おとぉはん、今度○×ちゃんと一緒にご飯食べ連れっとぉくれすな、長いこと行ってぇしまへんし、□△はんがよろしおす。」
「せや、うちも長いこと焼肉食べてぇしまへんし、そこがよろしおす」
「しゃあないなぁ、ほないつが都合ええねん?」
「へぇ、すぐたんねてみます」
二人とも、ばたばたと奥の方へ。こういうときはおいどが軽おす。
しばらくして戻ってくると、
「今度の水曜日どしたら、うちも○×ちゃんも空いてますねん。その日でお頼申しますぅ」
「わかった、ほな6時半に迎えにくるさかい待っとって」
「おおきにぃ、お頼申しますぅ〜」
舞妓ちゃんや若手の芸妓はんは、ご飯食べ大好きなんどす。美味しいもんが食べれる、ちゅうこともおすけど、何より白塗りして(※1)引摺らんでもええちゅうこと。夏場やと特に喜ばれますなぁ。ご飯食べのときは、大体(※2)そんなりで来やはりますけど、明日髪結いかえる、ちゅうときなんかやと洋服で来たりもします、勿論髷をほどいて。
若い妓等は、ほんまよう食べはります。
「あんたら、普段屋形で食べさして貰うてへんのんか?」
「そんなことおへん、ちゃんと食べてますえ。けどお外で食べる方が美味しおす〜」
べべが汚れんようにと。お店が貸してくれはった割烹着やエプロンをして、次から次へと口に放り込むのんを見てると、ほんま気持ちよろしい。
「あ〜、もうあきまへん。お腹いっぱいで苦しおす」
「うちも、最後の石焼きビビンバがこたえたわ」
「はいはい、お腹も身のうちどっせ、程々にしとかんと。」
食事中は静かやったんが、またひとしきりきゃあきゃあとしゃべっとります。
「ほな、ぼちぼち行こか」
「へぇ、ごっとぉはんどした。ほんなら帰りしなに都路里はんで抹茶パフェ、よろしおすか?」
「え〜まだ食べんのかいな、どこに入るんや?」
「甘いもんは別腹どすぅ、なぁ、○×ちゃん」
「そうどす、それにうちら肉体労働者どっさかい」
皆さんお元気どす。
※1 引摺り 裾までの長いべべを引摺る、つまり芸・舞妓はんらの盛装どす、芸妓はんは鬘かぶって白塗り。
※2 そんなり 引摺りの逆、芸妓はんは洋髪で普段のべべ。舞妓ちゃんは、頭はそのままで、べべはふつうのもん、勿論、白塗りはせぇしまへん。
鋪装が石畳になってから、花見小路には仰山の観光のお方が歩いてはります、土日なんてまるで新京極状態どす。その花見小路にまた提灯がぶら下がっとります。秋に都をどり? いえ、よう見て貰うたらわかります、「温習會」・おんしゅうかい、て書いてます。
去年は、五世家元の襲名披露が秋にあったもんで、この温習會はおへんどした。せやから初めて出る舞妓ちゃんがようけおります。10月1日から六日間、一日一度の公演どす。4時に始まって、その日のだしものによって多少のずれはおますけど、2時間ちよいちゅうとこどす。都をどりが1時間ほどなのに比べたら、結構長時間どす、舞の苦手なお方には苦痛な時間やて思いますけど。
内容は、長唄・地唄・常磐津・清元、今年は素囃子もあって楽しみにしとります。それに都をどりでは見られへん大きなお姉さんも出たはりますさかいに。
都をどりが済んだら早々と判取帳が廻って来んのどす、出演の意志確認のために。そんときにだしものや共演者もわかります。
「え〜、今年もまた○×さん姉さんと一緒やわ、どないしょ」ちゅうても替えては貰えしまへんのやけど、配役決めはんのはお家元どっさかいに。
春の都をどりが、気候も伴ってお祭りみたいなんに対して、秋の温習會は芸・舞妓はんらの一年のお稽古の成果を発表する晴れ舞台どっさかいに、おっきなお姉さんでも、緊張して舞うてはります。新人の舞妓ちゃんらの心境は推して知るべし、どっしゃろね。初日の前の晩なんか眠られへんのとちゃいますか。
観に来たはるお客はんも、都をどりのときとは少し違うとります。花街関係者、舞踊関係者、舞の好きなお方と、さすが都をどりのときみたく、観光バスで乗りつけて来るような団体さんは来たはらしまへん。
「どないしょう、間違うてお扇子落としたら」
「どもあらへんて、あんたお稽古んときでもあんじょう出来てたやんか」
内心は自分も、どうしようもあらへんほど緊張してるのに、同期の妓を励ましとります、いえ、きっと自分自身に言い聞かせてるんやて思いますえ。
温習會が済むと、京の町には秋の訪れが近づいて来るのんどす。
今日は祗園の芸・舞妓はんらが通う八坂女紅場学園のお話どす。女紅場・じょこうばて云うのんは明治の初め頃に全国につくられた、女子に裁縫・料理・読み書きなぞを教えるための学制外の施設のことなんどす。明治5年には京に新英学校女紅場(現在の鴨沂高校)、八坂女紅場がでけました。同志社女子大学も最初は「同志社分校女紅場」ちゅう名前やったんどすて。人気がなかったんか、やがて全国の女紅場は閉鎖されていったんどすけど、八坂女紅場だけは祗園甲部の芸事の研修所として残ったんどす。
祗園ではじょこうばとは云わしまへん、「にょこうば」て呼んどります。学園ちゅう名称がついとりますけど世間で云うところの学校法人やおへん。せやからここの生徒になっても学割は貰えしまへん(笑)。授業科目は、舞・能楽・長唄・一中節・常磐津・清元・地唄・浄瑠璃・小唄・鳴物・笛・茶道・華道・書道・絵画などがあんのどす。舞、鳴物、茶道と最近になって三味線が必須科目になったんどす。それ以外は好きなんを選択でけんのどすけど、大体自分のお姉さんの習うたはるもんになるみたいどす。
ここでは下は15歳から上はそれこそ80過ぎの生徒がいてはります。中学・高校やと三年生が最上級生どすけど、ここでは何十年生がいたぁります。他の学校では考えられへんことどす。またこの学園、毎年お正月に始業式はおすけど、入学式もおへんし卒業式もあらしまへん。つまり舞妓になったときが入学式、妓籍を抜けるときが卒業式ちゅうことになんのどす。自分一人、心の中での入学式・卒業式ちゅうのも他の学校では考えられしまへん。勿論、体育祭も修学旅行もあらしまへん(笑)、文化祭にあたるのんが春の都をどり、秋の温習會ちゅうことになんのどっしゃろか。
時間も、普通の学校みたいに毎日決まってるわけやおへん、自分の習い事があるときに出かけて行くのんどす。時間割ちゅうか、予定表が花見小路と切通にある検番の前の黒板に書いたぁりますさかいに、今度通ったときにでも見とぉくれやす。あ、あきまへんえ、勝手に書き変えたりしたら、見るだけにしといとぉくれやっしゃ(笑)お稽古の順番も原則的には早う来た順番なんどす。早う済まそて思うたら早くから行って待っとります、けどおっきなお姉さんが後から来やはったら、気を使うて「お先どうぞ、○×さん姉さん」て譲るときもあんのどす。せやから出たての舞妓ちゃんは時間がかかるんどす。けど、お姉さん方のお稽古を見せて貰うのんも勿論お稽古のうちどすさかいに、熱心な妓ぉは長いこと見学したはりますえ。
普通の学校の生徒と一緒で、お昼ごはんは一日の内で楽しみなひとときどす。お稽古が済んで、仲のええ同期らと待ち合わせて一緒に食事行くのんが嬉しおす。「ああ、おなか空いた、○△ちゃん今日は何食べる?」「せやなぁ、スタバもちょっと飽きたしなぁ、フカヒレラーメンでも食べよか」「あ、あれ美味しいなぁ。いっぺん、うっとこのお姉さんに連れてって貰うたわ。お姉さん、店でけたとき3日も続けて行かはったんやて」
昔は、舞妓ちゃんがお稽古帰りに食事にお店入るなんちゅうことは許されてへんかったんどすて。もしお姉さんにでも見つかったら、そらすごいこと怒られたらしおす。今の舞妓ちゃんはその点、恵まれとりますなぁ。て、おっきなお姉さんが云うてはりました。同期と一緒に食べながらいろんな話に花が咲きます。このときばかりは世間一般の普通の女の子に戻って、きゃあきゃあと賑やかなことどす。たまには悪口も出て来ますけど、気ぃつけなあきまへんえ、壁に耳有りどっせ。
今日はお風呂のお話どす。今はどこの屋形にも内風呂がおますさかいに、銭湯へ出かける舞妓ちゃんは殆どおへん。けど、一昔前まではみんな銭湯へ出かけて行ったもんどす。昼下がりに、浴衣がけで石鹸の匂いがする舞妓ちゃんらが歩いてるとこなんかなかなか風情がおしたけどねぇ。誰どす、お金払うてもええさかいにそんなとこの番台に座りたい、て云うたはんのは(笑)。名前は忘れてしもうて、今はもうおへんけど、先斗町には女風呂だけちゅうお風呂屋さんがおました。お客はんはもちろん先斗町のお姉さん方どす。祗園にも「祗園湯」ちゅうお風呂屋はんがあったんどすけど、最近無うなってしまいました。
このお風呂へ行くタイミングが難しいのんどす。新人の舞妓ちゃんにとっては皆先輩どす、「着物着たはるおなごはんみたらとにかく頭下げときなはれ」て云われるくらいどっさかい、そんな妓が何も考えんとのこのことお風呂へ出かけたらえらい目に合うのんどす。さあ上がろかいな、思うたとこへお母はんとかお姉さんとかが入って来はります。「お先どす、姉さん」ちゅう訳にはいかしまへん。「背中流さして貰います、姉さん」で、ゴシゴシゴシ。ようやっと終わったて思うたところへ次のお姉さんが、運がわるいと次から次へと入って来て中々出られしまへん、揚げ句の果てに湯あたりで倒れた舞妓ちゃんもいたそうどす。
舞妓ちゃんになってしばらくすると、要領がわかって来ます。お母はん、お姉さん方がお風呂屋はんへ行く時間ちゅうのは大体決まっとります。せやから、ぎょうさん行かはる時間帯を避けて、少ないときに行くのんどす。生活の知恵どすなぁ。けど、中にはその逆を狙う妓もいたんどすて。どういうこっちゃて云いますと、昔は今みたいに舞妓ちゃんの数が少のうて、ちやほやされる時代やおへんどした。器量の悪いのんや舞の下手な妓は中々お花が売れへんのどす。今では考えられへんことどすけど、都をどりも出られへん妓がぎょうさんいたらしおす。
そこで、そういう妓はどうするかて云うと、朝は毎日お茶屋はん巡りをして「お母はん○×どす、よろしゅうお頼申します」そう、先ず名前を覚えて貰わなどうしようもおへん。それにおかんにしても、毎日毎日通うて来るといじらしゅうなって来ます。何かの折りに、そやあの○×ちゃん呼んだろか、ちゅうことになりますわなぁ。そこで、お風呂でもこの手を使うんどす。つまり、ぎょうさん来やはる時間をわざと狙って待ってんのどす。で、来やはったおかんに「お母はん背中流さして貰います、どこそこの○×どす、○×どす、よろしゅうお頼申します」て、選挙の連呼みたいに背中で云うのんどすて。こんな話聞いたら、切のうて泣けてきまっしゃろ。
売れへん妓は人並以上に努力せなあきまへん、結果お稽古も熱心にしやはるし、愛想もようなります。逆に顔立ちがええ妓はほっといても(※1)お花が売れますさかいに段々と横着になって、これが自分の実力なんやて思うようになってしまいます。何年か経ったら、その差ははっきりしますわなぁ。持って生まれた美しさちゅうのんは段々と古うなりますし、次から次と若い妓が出てきます。盛りの時期はあっちゅう間どす。それに比べて、身につけた芸ちゅうもんは年が経つほど磨かれていくもんどす。
そら器量が良うて努力家ちゅうのんが理想的やとは思いますけど、うちが思うに、舞妓ちゃんになる条件は決して顔立ちだけやないて思うんどす。器量の悪いのんをバネにして努力するちゅう根性があるかないかの問題やて思います。こら舞妓ちゃんの世界だけやおへんけど、自分が大事にされへんのは綺麗に生んでくれへんかった親のせいやとか云う子がいてますが、見てるとそういう子に限って努力はしたぁらしまへん。人間、努力したらきっとそんだけの報いはある、て思いますえ。
※1 お花 花代ちゅうて、芸・舞妓ちゃんを呼んだときの料金のことどす。5分を1本ちゅうて勘定すんのどす。1本幾らかは、そんときの状況次第、おかんが鉛筆舐めながら決めるんどす。
最近、京都新聞社はんから一冊の本が出版されたんどす。「京の女将さん」ちゅう本どす。これは京都新聞の夕刊に連載されてたんをまとめたもんで、101人の女将はんが紹介されとります。興味あるお方は是非買うとぉくれやす。
さて、今日はお茶屋はんのおかんのお話どす。女将・お母はん・おかん、呼び方はそれぞれどすけど、文字通りにそのお店の顔どす。おかんの顔が溌剌としてるお店はやっぱしようはやっとりますなぁ。お客はんも店をたずねるときの楽しみの一つが、おかんの顔を見に行くこと、なんやおへんやろか?
「なんや、おかんいてへんの、どこ行ったん?」
「すんまへんなぁ、ちょっと遠方で不祝儀がおして」
「そうかぁ、ほな今日はやめとくわ」
「そんなこと云わんと寄っとぉくれやすな、留守見舞に」
舞妓ちゃんや芸妓はんに囲まれてわいわいやんのもそら楽しおすけど、何十年ちゅう間花街に生きてきはったおかんらと話するのんが、うちはもっと楽しおす。何よりもうちらの知らんことを教えてくれはりますさかいに。中には他所では喋れんような内容のお話もおすけど(笑)
え、おかんは普段は何してるんや?て、どすかおかんの仕事なんどすけど、そらものすごう仰山あんのどす。屋形も一緒にやってはるとこやと、そら殆ど年中無休状態どす。家にいてる妓の着物の段取り、お客はんからの予約、経理の事も人ばっかりに任せとかれしまへんし、廻って来た芸・舞妓はんらの花代を見てお客はんへの請求書をこさえんなりまへん。営業時間はお客はんのお相手、全ての席に挨拶して廻って、帰らはるときにはお見送り。夜も舞妓ちゃんらが皆帰って来るまでは心配で寝られしまへん。夜寝るのんが遅うなっても、次の朝舞妓ちゃんが出張やて云うたらその前に起きて準備してあげんなりまへんし。
日曜のお休みも、お客さんのお相手でゴルフや麻雀に誘われたら断れしまへん。月2回の(※1)公休日でさえも、自分とこの芸・舞妓ちゃんらが気張ってたら自分だけ休む訳にもいかしまへん、ちゅうて気張ったはります。その間に祝儀・不祝儀で出かけんなりまへんし、神さん詣りもお墓参りもかかせしまへん。ほんま休む暇も無う動き廻ったはります。おまけに都をどりの期間中1週間前からは都をどりの切符を手配せんなりまへん。をどりが始まると入口でお客はんを待って、お茶席ではお正客の席を確保して、その後席まで案内せなあかんさかいに余計に忙しい毎日がひと月続くんどす。今ごろは、おかん連中みんなくたびれた顔したはります。ほんまご苦労さんどした。
「おかん、娘が劇団四季のオペラ座の怪人、観に行きたい云うてんのやけど5月まで満席なんやて。どこぞで切符取れへんやろか?」
「ちょっと待っとぉくれやっしゃ、たんねてみますわ」
10分後には「取れました」ちゅうてかかって来ます。おかん連中、そら顔が広おすさかいに、大抵のことは頼んだらやってくれはります。(どこぞの人みたく、献金はいらしまへん。まぁ気持ちがあったら、(※2)ごはん食べでも呼んだげたらよろしおす。)頼んだら病院も待たんと診察受けられますし、芝居の切符なんかはお手のもんどす。
どこぞですでにでき上がって、遅がけに入ってきていきなり
「おかん、○×の餃子云うてぇな、皆んなも一緒に食べよか」
「わしは△□のカレーうどんがええわ、いつもの(※3)台抜きやで。その前に焼酎のお湯割作ってぇ」
「もうええ按配どっさかいに、止めとぉきやすな」
「ちょっと○×ちゃん、熱いお茶入れたげてんか」
こないな迷惑な酔っ払いにも嫌な顔せんと相手してくれはりますし、身体の心配までしてくれはります。そんときは当たり前のように振る舞うとりますけど、翌朝になったら、ほんま世話になったて感謝しとりますえ。身体を大事にいつまでも頑張っとぉくれやっしゃ。
※1 公休日 祗園甲部では毎月、第二・四日曜が公休日で舞妓ちゃんらのお休みの日ぃなんどす。
※2 ご飯食べ 芸・舞妓ちゃん等をお花代つけて、食事に連れて行ってあげることどす。おかんは勿論花代はいらしまへんけど(笑)
※3 台抜き おうどんの入ってへん「おうどん」のことどす。カレーうどんの台抜きちゅうたら、カレーつゆと 肉・野菜だけちゅうことになんのどす。お うどんの量が半分のんは台半・だいはんて云うのんどす。祗園町のうどん屋はんでは通じまっさかい、いっぺん試してみとぉくれやす。
今日は妓名のお話どす。皆はんはご自分の名前、気に入ってはりますやろか?名前の選択権はもちろん自分にはおへん、親が決めたもんどすさかい。おんなじように舞妓ちゃんの名前も本人に選択権はあらへんのどす。お店出しのときに、屋形のおかんが、引いて貰う姉芸妓はんの一文字または二文字を貰うて、後は晴明はんとこで観て貰うてつけはんのどす。舞妓ちゃんが「うち、こんなんいややわ」て思うてもどないもならへんのどす。屋形によってはある程度は本人の希望を聞いてくれるとこもあるらしおすけど、大体はお仕着せなんどす。
「○×ちゃん、あんたの名前かいらしてええなぁ、うちなんかなんや年寄みたいでかなんわ」
「そんなことあらへんて、△□ちゃんの名前やったら(注1)おっきな芸妓はんになったかておかしないけど、うちの名前でおっきな芸妓はんになったら恥ずかしいわ」
「あんたらなんえ、せっかくお母はんが考えてつけてくれはった名前に、文句云うてどないしますねん」
気がついたらいつの間にか、そばにお姉さんが立っとりました。
芸妓はん、舞妓ちゃんにとってこの妓名は、花街にいる限り本名以上に大切なもんになんのどす。花街の中だけやのうて旅先でもどこでも、お互いを呼ぶときに決して本名では呼ばしまへん、必ず妓名で呼び合うのんどす。(注2)引いて何十年も経ったおかんらも、今でもお互いを本名やのうて妓名で呼んだはります。せやからどこ行ってもすぐにばれてしまうんどす、花街の人やちゅうのんが。もっとも喋らんでも着物の着こなしとかですぐに分かりますけど。
この妓名、おんなじ花街では現役の方とおんなじ名前は使うことが出来しまへんのどす。そらおんなじ花街でおんなじ妓名の妓がいたらややこしおすわなぁ。花街が違うたらかましまへん、けど使わして貰うときには一応挨拶を通しとかんとあきまへんやろねぇ。妓籍を引かはったときには、頼みに行って向こうが「あんたはんとこの子やったらかましまへん、どうぞ使うとぉくれやす」ちゅうたら使うことは出来るんどす。そのかわり、その妓にはプレッシャーは余計にかかりますわなぁ、引いて貰うたお姉さんに加えて名前貰うたお方の分が増えるんどっさかいに。
芸・舞妓はんらが手紙などを出すとき、宛名は(注3)自前のお姉さんに出すときやったら「本姓 妓名 様御姉上様」、屋形にいてはる相手には「屋形名 妓名 様御姉上様」てなんのどす。同期か下のもんに出す時は、御姉上様はいらしまへん。皆はん書道を習うたはりますさかいに、もちろん筆で書かはります。特に上のお姉さんとか屋形のお母さんに出すときは、間違うてもボールペンとか使うたらあきまへんえ。
芸・舞妓はんら、自分の持ち物には大抵のものに妓名が入っとります。ハンカチ、傘、携帯のストラップにまで、まるで幼稚園の子みたいどすけど、これは失さんようにちゅう意味やのうて自己主張といった意味合いの方が強おす。初めてのお客はんに呼ばれて席に着いて、そのお客はんのボトルを見つけると、ぱっと目を走らせて誰と誰の千社札が貼ったぁるのんかを調べます。
「うちのんも貼らしてもろてよろしおすか?」
「ああ、かまへんで。その○×はんの上にべたっと貼っといたらええやんか」
「ひやぁ、そんなおそろしこと、見つかったら○×さん姉さんにしばかれますぅ」
「へぇ、あの姉さんそんな恐いんかいな、見たとこやさしそうな顔してるけど」
「いえ、そんなことぉ・・・おへんけどぉ・・・」
ちゅうて、おもむろに自分の千社札をそれなりのポジションに(上のお姉さんよか高いとこには貼れしまへんし)貼っていかはります。犬のマーキングみたいなもんどっしゃろか?
因にこの千社札、舞妓ちゃんから貰うたときは財布の中に貼っといたらええのんどすて「お金が舞いこむ」ちゅうて。そういうたらうちの財布には芸妓はんのしか貼ってへんさかいにお金が入って来ぃしまへんのやろか(笑)
(注1)おっきな芸妓はん 年長のベテランの芸妓はんのことどす。身体が大きいちゅう意味やおへん
(注2)引く 芸妓を辞めることを云うのんどす。ちゃんと「引祝い」を配って辞めんとあきまへん。二度と花街へは戻らないときには「白蒸し」を、もしかしたら戻って来るかも知れんときには赤飯を混ぜたんを配るんやそうどす。
(注3)自前 年(年季奉公)も明けて屋形から出て独立することどす。
気がついたら、今年もお茶屋はんの軒先につなぎ団子の提灯が下っとります。もうじき都をどりが始まります、いよいよ春どすなぁ。今年は4人の新人舞妓ちゃんが初舞台を踏まはります、ひと月間頑張って欲しおすなぁ。
「みぃやこをどりは〜〜」「よ〜いや、さぁ〜」今年も賑やかな掛け声が祗園甲部歌舞練場に響いとります。今年はきりのええ第130回ちゅうことどす。京にはこの掛け声を聞いたら春を感じる、ちゅうお方がたんといたはります。英語のプログラムでは「チェリーダンス」ちゅう名前で紹介されとりますけど、まさに春爛漫の卯月四月に催されるをどりにはぴったしの名前やて思うんどす。
四月一日から三十日まで、一日4回の公演どす。詳しいことは木花はんが書いてはりますのでそちらを参考にしとぉくれやす。お席はちょっと高おすけど「お茶席付き」がお奨めどす。お茶席では、若手の芸妓はんが黒紋付・赤裏襟返しの正装でお茶点ててくれはります。それを控えの舞妓ちゃんがしずしずと運んでくれはんのどす。もっとも、仰山のお客さんどっさかいに全員に行き当たるちゅうことやおへん。最前列の「お正客」の席についた人にだけ当たるんどす。
大体が、お茶屋のおかん連中がこの席を押さえてはりますさかいに中々一般の方が座るのんは難しいんどすけど、勇気あるお方は是非トライしてみとぉくれやす。座ったさかいちゅうて別に怒られはせぇしまへん、まぁおかんに睨まれるくらいどっしゃろ(笑)。お点前のとこを写真に撮るのんはかましまへん、けど芸妓はんや舞妓ちゃんに話かけんのは辞めといたげとぉくれやすか。點茶の席では彼女らは話しても笑うてもあかんのどっさかいに。
昔は、このお正客の席の常連はんに芸妓はんがお薄の代わりにビールやとかウィスキーを入れたもんを出してたんどす。出された客も知らん顔して呑んどりますし、出した方もすました顔どす。こんな楽しいことも最近は禁止されたんどす、え、誰にてどすか?そらうちの口からは云えしまへん(笑)けど、ええやおへんかこれくらいの遊び心は、ねぇ。お客の方も、仕返しにその妓が出番のときに大勢で最前列に陣取っておかしな顔して笑かすのんどす、その妓は吹き出しそうなんを必死でこらえて、指先や口元が震えとります。あ、これも禁止されてしもたんどす、つまらん。
この都をどりの切符なんどすけど、切符はプレイガイドとかで手に入るんどすけど、それだけではあきまへん。自由席やとそれでええのんどすけど、指定席やと指定席券に換えなあきまへん。この指定席券の交換場所が歌舞練場と京都高島屋、京都大丸、梅田大丸、神戸大丸に限られてんのどす。しかも1週間前から始まるのんどす、1日の席を取ろ思うたら3月25日の朝10時から、ましてええ席取ろ思うたら並ばんとあきまへん。これがお茶屋のおかんの大事なお仕事のひとつなんどす。おかんらも大事なお客はんに頼まれた切符は、他人に任せんと自分で並ばはんのどっせ。ひと月間、大変なことどすなぁ。けど、最近は大手旅行代理店がその数にものいわせて、結構ええ席を取っとります。土・日なんかやとこっちに頼んだ方がええときもおす。「常連さんよか観光客の方がええ席、ちゅうのはどういうこっちゃ」ちゅう怒りの声が聞こえて来ます(笑)
「おかん、来週の日曜、4回目に3枚取っといてくれへんか?東京の○×はんやし、ええ席取っといてや」「へぇ、○×はんで日曜4回目を3枚どすな、わかりました」ちゅうてても忙しいときやと忘れてしまうこともたまにおます。せやから頼むときは朝一番に云うた方がよろしおす(笑)「あと、案内も頼むわ、私は行けへんさかいに」当日は、おかんが入口で待っててくれて、席まで案内してくれはります。勿論、お茶席ではお正客の席を取ってくれはります。一日4回、一体何組のお客はんを案内することどっしゃろか、おかん稼業もなかなか大変どっしゃろ。
一方、立方はんも1日4回の舞台に、交替で舞とお囃子を舞妓ちゃんは25日、若手の芸妓はんで20日出演しやはります。おっきなお姉さん方は舞だけで10日、地方はんで15日どす。これも大変な重労働どす。おまけにをどり期間中はお客はんも多おす。終わってからはそのお客はんらのお座敷がおすさかいに、日によったら15時間位気張ってることもあんのどす。毎年、一人や二人は過労で倒れる舞妓ちゃんがいてますけどほんまたいへんなお仕事どす。栄養のあるもん、ぎょうさん食べて頑張っとぉくれやす。
つい最近、祗園町に新しい舞妓ちゃんが店出ししはりました。柴田はんとこの妓で名前は豆千花・まめちか、引いたお姉さんは芳豆はんのいもとの豆弘はんどす。年々少のうなってきた舞妓ちゃん、一人でも増えたんは喜ばしいことどすなぁ。
さて、今回はお店出しのお話どす。皆さんも「お店出し」ちゅう意味は既にご存じやと思いますけど、知らんお方のために云いますと、舞妓ちゃんのデビューちゅうことなんどす。半年から一年にわたる辛い仕込みさんの生活に耐えて、ようやっとおっしょはんから許しが出たら、次は引いて貰うお姉さん探しと妓名の番どす。これはおかんの仕事どすけど。まぁ大体、おかんの筋とかで決まってしまうようどすけど。妓名の方はと云うと、引いて貰うお姉さんの名の一文字または二文字を貰って、あと晴明はんとかで見て貰うて決まるんどす。
舞妓ちゃんになる前に舞の試験がある花街もおす。甲部でも昔はあったんどすけど、現在試験は無うなってしまいました。お家元の判断一つにかかってるらしおす。お家元からOKが出たら、次に見習いとして「見習いのお茶屋」はんに大体1カ月位前から通うて、そこで舞妓としての実技研修があんのどす。時間は夕方6時から10時まで、お座敷に上がってお姉さん方のお手伝いやらお酒を運んだりといわば雑用係どす。もちろんお花代は付かしまへん。この見習いのお茶屋はんも、これから先重要なお茶屋はんになんのどす。
この期間中の舞妓ちゃんは見たらすぐにわかるんどす、ちゅうのも本来は裾まで届く舞妓のシンボルちゅう「だらりの帯」が、この期間中は長さも半分位の「半だら」て云われる帯を締めるんどす。皆はんもこれから花街を歩いてて、半だらの妓をもし見かけたら「見習いちゃん頑張って」と心の中で応援したげとぉくれやすか。
見習い期間も終わると、これまた以前から屋形のおかんが晴明はんでみて貰うたええ日にお店出しがあんのどす。大勢の人から送られたお日柄(おめでたい絵柄が描かれたポスター大の祝紙)がはりめぐらされた屋形の部屋では、朝早うから支度におおわらわどす。おかんを始め、姉芸・舞妓、親戚筋等が集まってにぎやかなことどす。まず、先輩舞・芸妓はんに化粧をしてもらいます。今日だけはお姉さんにしてもらうんどすけど、明日からは自分でせんなりまへん。最初に鬢付け油を手でのばして顔全体に塗っていくのんどすけど、慣れるまではなかなか均一に塗れしまへん。せやから出たての舞妓ちゃん、たまに白粉がまだらになってる妓がいたはります。
化粧がすむと、男衆さんが着物を着付けてくれはります。こちらは慣れた手つきであっちゅう間に出来上がり、正に職人芸どす。鏡の中には、真新しい舞妓ちゃんがいたはります。「これがうちやろか」自分でもびっくりするほどどす。今朝結い上げた髷・わげには、今日から三日間だけつける鼈甲ででけた「だいかん」て呼ばれる大きめの簪、「びらかん」てよばれる銀ででけた細い短冊状のもんがぎょうさんついた簪も、この日は両側についてます。襟足はもちろん三本襟足、黒紋付と合わせるとほんまにきりっと引き締まって見えるんどす。髷の後ろには「見送り」て呼ばれる金と銀の紙ででけた九尾のきつねのしっぽみたいなんが1対飾られとります。
用意が整うた頃に男衆さん・おとこしさんがやって来ます。そして座敷で固めの盃ごとが始まります。結婚式のときの三三九度みたいなもんどす、違うのんは相手が男やのうて姉芸妓はんちゅうとこどす。引いて貰うた姉芸妓、そのまた姉芸妓、姉舞妓らが並ぶ向いに座って、「千鳥」て云われるスタイルで盃を交すんどす。この盃事には、屋形のおかんは筋が違うたら列席はしやはらしまへん、引いて貰うお姉さんの一族だけが列席出来んのどす。このお盃ごとが済めば、ようやっと一族の仲間入りどす。
その後、男衆さんについて貰って祗園町のお茶屋はんに挨拶廻りをすんのどす。花街によっては姉芸妓はんが連れて行くところもおすけど、甲部はんではお姉さんは付いて行かはらしまへん。おかんの切り火を背に、ゆっくりと左足から玄関を出ていくのんどす。表にはカメラを持ったギャラリーが大勢待ちかまえてます。その数に驚きながら、「自分もカメラ向けられるようになったんや」と改めて舞妓になったことに気がつくんやそうどす。
「○×はんのお店出しです」男衆さんの挨拶に続いて「○×どす、よろしゅうおたのもうします、お母はん」何十軒ものお茶屋はんに挨拶をして廻って、もう足が棒のようになってしまいます。おまけに衣装も全部合わせると軽く10キロは越しますさかいに、どんだけしんどいかは想像できまっしゃろ。けど、屋形へ帰って来てもそないゆっくりもしてられましまへん。夕方からはお座敷が待っとります、ぎょうさんのお座敷からお花がかかっとりますさかいに三日間の正装のときは一つのお座敷に30分もいられしまへん、それこそ蝶のように次々とお茶屋はんを廻って、お客はんからもぎょうさんお祝いの言葉やご祝儀頂きました。そう、今夜から祗園の新しい舞妓ちゃんになったんどす。けど、舞妓ちゃんがどんだけ大変なお仕事か、て気がつくのんはもうちょっと先のことどっしゃろねぇ。
さて、今日は義姉妹のお話どす。先日放映された「スーパーテレビ」の照古満はんの店出しで、固めの盃事が映ってたんを観はりましたやろか?照古満はんの向いに座ったはった照豊はんが照古満ちゃんの「お姉さん」どす。その横には照豊はんのお姉さんの照千代はんが並んだはりました。
皆はんもご存知の通り、舞妓ちゃんに憧れて祗園へやって来て、どこぞの置屋はんでおちょぼはん(仕込みさん)をおよそ一年ほど続けてから、いよいよ舞妓ちゃんとして店出し(デビュー)するようになったとき、必ず芸妓はんのお姉さんに(ごく稀に舞妓ちゃんでも)引いて貰わななりまへん。この時の人選は、屋形のお母はんの人脈とかで決まってしまいますさかい、舞妓ちゃんの意志は全く反映されへんのどす。つまり、自分から引いて貰うお姉さんを選ぶことは出けしまへんのどす。ごく稀に自分からの逆指名ちゅうこともあったらしおすけど、あくまで例外どす。
めでたく、引いて貰うお姉さんが決まったら店出しの当日、お姉さん・お姉さんのお姉さん(引いてもらう舞妓ちゃんからみて大っきいお姉さん)・先に引かれた姉芸・舞妓等親戚筋が集まって、義姉妹の固めの盃事が行われんのどす。是から先は、どちらかが他界するか妓籍を抜けるかするまではず〜っと続く関係なんどす。ある意味では、ほんまの姉妹よりずっと深い関係と云えるかもしれまへん。実はこの姉妹縁組み、引かれる舞妓ちゃんよか引くお姉さんの方が精神的にも肉体的にもずっと大変なんどす。
ちゅうのも、妹がしたことについての責任はすべて姉にまわって来んのどす。お師匠はんに舞が下手やて叱られたときは一緒に付いてあやまりに行かんなりまへんし、「おとめ」ちゅうて稽古場に残されたときは、飛んで迎えに行かんなりまへん。何らかの理由でお座敷に穴空けたらそのお茶屋はんのお母はんに謝りに行かんなりまへん。出立ての頃は、贔屓のお客さんなどおへんさかい、お姉さんが連れまわって「今度出たうちのいもとどす、よろしゅうお頼申します」ちゅうてお客さんに紹介してまわります。勿論、お客さんに粗相でもしたときは、一緒に謝らんならんのは当然どす。「うちのいもとがえらい事しまして、すんまへんどした」て。
今でこそそういったことは少のうなりましたが、毎月の簪を揃えてやったり、「東京行き」ちゅうて東京見物にも連れて行かんなりまへん。芝居見物にも、ご飯食べにも連れて行かはります。悩み事があったら相談に乗ってやらんなりまへんし、舞や鳴り物のアドバイスもしたげます。
どうどす、こんな事やったら妹なんか引かん方がましや、て思わはりました? 実際、屋形のお母はんから「○×はん、今度うちの子、引いて貰えへんやろか?」て云われたら、大概はしり込みしはります。けど、結局お母はんとか、自分のお姉さんとかの筋でどないも断れんようになって来んのどす。それに、よう考えたら、自分も昔、お姉さんに引いて貰うて舞妓ちゃんになったんどすさかいに、そのお礼返しやと思うたらしょうおへん。そうして順繰りに関係が続いて行くのんどす。
ほな、舞妓ちゃんは楽でええやないか、て思わはるお方もおすやろけど、舞妓ちゃんにはまた、せんならんことがあんのどす。今でこそ、見かけんようになりましたけど昔は「鏡台磨き」ちゅうて、毎朝自分のお姉さんのとこまで行って、お姉さんの鏡台まわりの掃除と水の用意をせんなりまへん。それに今の若い子には辛いことどっしゃろけど、お姉さんの云うことには絶対服従なんどす。お姉さんが「あきまへん」ちゅうたらどんなことがあってもあかんのどす。一緒にご飯食べに呼ばれても、お姉さんが箸をつけるまでは、なんぼお客さんが勧めても決して口にすることは出けしまへん。(ある意味で体育会系、もしくは軍隊)
こない書くと、なんやいじめの世界やないか、て思わはるかも知れまへん。けど、お姉さんにとっていもとは決して憎い筈がおへん(て、うちは信じとります)。他所の妓よか、自分のいもとが可愛いのんは当然どす。よその妓より自分のいもとが舞が上手やったらそら嬉しおす。お師匠はんから誉められたりしたら、我がこと以上の喜びどす。せやから、をどりが近づいたら気が気やおへん、あんじょう舞えるやろか、失敗せえへんやろかと、まるで参観日の母親みたいに稽古を見つめたはります。いもともそんなお姉さんの気持ちが通じてか、お姉さんの名前に瑕つけんように、お姉さんに恥かかさんようにと一生懸命稽古に励まはんのどす。どうどす、なかなかええもんどっしゃろ、義理の姉妹も。
さて、今日は「仕込みはん」のお話どす。仕込みはんちゅうたら舞妓ちゃんになるための修業期間中の子のことなんどす。昔はおちょぼはん、て呼ばれとりました。去年の秋、京のある花街で3人いっぺんに舞妓ちゃんが店出ししはりました。これだけでも充分珍しいことどすけど、この3人ともインターネットでお茶屋はんのHPを見て応募してきやはったんやそうどす。時代は変わるもんどすなぁ。これからはこういった手段で舞妓ちゃんになる人が増えてくるんかも知れまへん。
今までは「舞妓ちゃんになりたい」て思うたときは、一番てっとり早いのは、知りあいに花街へ通うてる人がいはったらその人に頼んで屋形(置屋はんのことを京ではこう呼びます)を紹介して貰うことどす。けどそういったツテがおへんときには、直接花街の組合などに相談したら適当な置屋はんを紹介して貰えるんどす。けど、これやとどんな屋形を紹介されるかは分からしまへん。誰それはんの妹になりたいとかいう希望があんのやったら、それなりに自分で情報収集をして、行く屋形を決めた方がよろしおす。そうして屋形のお母さんとこに話が行って、ほなおいてみよかいなちゅうことになったら、「いっぺん親御さんと一緒に来とぉくれやす」ちゅうて、いわば三者面談をすんのどす。
お母はんはここで、仕込みさんの修業がどんなにつらいもんかを本人に、また「そんな厳しいとこやったらやめとき」て思わはんにゃったらどうかお引き取り下さい、て親御はんには説明しやはります。途中で辞められたりしたら、世間体もおますし、それまでの投資が無駄になりますさかいに。それでも結構、頑張りますて本人が云うて、親御はんもそれやったらあんじょうお頼申します、と話がまとまったらいよいよ置屋に住み込むことになり、ここで住込の仕込みはんとしての修業が始まるのんどす。
今では殆どの仕込みはんが、地元の中学もしくは高校を卒業してから来はります。けど、ちょっと前までは中学を京の学校へ転校して、学校へ通いながら仕込みはんをする、「学校行きさん」て呼ばれる子もいたんどす。どこが有利かと云うたら、中学卒業と同時に店出しできるとこどっしゃろか。その中学校では、仕込みの子が「先生、うちこれからお稽古ですねん」て云うたら授業中でも帰らしてくれたらしおす。
さて、仕込みはんの仕事とはどないなもんどっしゃろか。屋形によって若干違いはおすけど、仕込みさんとしてここで掃除・洗濯・使い走り・お母さん、お姉さんの手伝い・着物の着付け・行儀作法・花街ことば・お稽古ごと、おまけに屋形で飼うてる猫が行方不明になったら探しに行かんなりまへん。(笑)今まで家では掃除もしたことが無いような子が受けるカルチャーショックの大きさは想像するに難くはおへん。中にはこの仕込み期間中に逃げ出してしまう子もいてる位どっさかいに。そのような修業を、昨今では大体半年から1年続けてようやっと舞妓ちゃんになることが出来るんどす。
それに何よりも「気配りがでけるようになること」が一番大事な修業なんどす。雨が降り始めたら、お座敷に行ってはるお姉さんにコートと傘を届けんなりまへんし、お母さんが出かける用意してはったら、履物を揃えとかなあきまへん。最初のころは云われてすんのどすけど、そんなことが自然とでけるようになるころには、ことばも何とのう馴染んで来とります。で、この気配りちゅうのんが後々、舞妓ちゃんになってお座敷へ上がったときに役に立つのんどっせ。
待遇はていうと、お休みは舞妓ちゃんらとおんなじで甲部では、第二・最終日曜の月二回、後都をどりの後の5〜6日のお休み、7月頃に3〜4日の夏休み、暮れは大体28日から年明け5・6日頃までの正月休みだけどす。これだけでも厳しいことが分かりまっしゃろ。着物・食事・住まい・お稽古の月謝はすべて屋形でみますさかいに、基本的にお金は1銭もかからしまへん。お小遣いも大体5〜7万は貰えんのどす。
朝起きてから仕事をこなし、お稽古に通い、夕方にはお姉さんの支度のお手伝い、お風呂はもちろんお姉さんが帰って来て入らはってからどっさかい、寝るころはもう夜も更けとります。なんぼ若いさかい云うてもしんどい仕事には違いおへん。そんな仕込みはんの心の支えになるのんが、お姉さんもうちらとおんなじことしてきはったんやと云うこと。「お姉さんにでけてうちにでけへんことはあらへん」、ちゅうて自分自身にむち打って気張らはんのどす。それに何よりも、毎日目にするお姉さん方の艶やかな姿。「うちもはようあんな恰好で歩いてみたい、はようお座敷に出てみたい」ちゅう気持ちを胸に今日も忙しゅう働いたはります。
仕込みはんはお客の前に出ることはおへんさかいに、お座敷で彼女らと会うことはおへん。たまに町中をなんぞの用事で小走りにしてんのを見かけたら、「○△ちゃん、よう気張ってはんなぁ、けどそないに走ったらトンする(ころぶ)え」て声かけたげたり、土産に貰うたお菓子を差し入れたり、たまに内輪の宴会なんぞのとき、座敷の隅っこでお姉さん方の舞を見学させたぁげたりすんのどす。心の中で「頑張ってはよ出てきぃや」て祈りながら。そんな子がお店出しするて聞いたときは、ほんま我が事のように嬉しいもんどすえ。
師走恒例の顔見世も始まり、何とのぅ気忙しい季節となりました。始業式の話をしてたんがついきんののようどす。見たら舞妓ちゃんの簪(かんざし)にまで招木が上がっとります。この簪、花街総見の日ぃに自分の好きな役者はんの楽屋へたんねて行って書いて貰うんどす。
「○×ちゃん、あんた誰に書いて貰うん?」
「そらやっぱし、襲名しはった三津五郎はんやろ」
「そうかぁ、けど混んでんのとちゃう?うちは、楽屋廻って空いてそうなとこにしとくわ」
舞妓ちゃん、皆がみな歌舞伎好きとは限らしまへん。中にはあんまり興味ない妓もいたはります。そんな妓にとったら桟敷ちゅう晴れがましいとこで観劇するのんはほんま苦痛らしおす。だんだんと眠とぉなって来て、しまいに舟を漕ぎだす妓も中にはいたはります。横の妓がつっついて起こしたげんのどすけど、しばらくしたらまたコックリ、コックリ。舞台の役者はんはしっかりとその妓を見とります。後でお座敷に呼ばれたとき、しっかりと嫌みを云われんのやそうどす。
十三日は事始め、朝から門前のおっしょはんの家には芸・舞妓ちゃんらが次々と顔を出さはります。けどこの日ぃは紋付やのうて普段のお稽古着どす。それでも外にはカメラ小僧が山ほど集まって来たはります。この人ら平日の朝からこんなとこ来てて、何の仕事したはんのやろかて時たま思うんどすけど・・・「おめでとうさんどす、おたのもうします」ぎょうさんの鏡もちが紅いもうせんのひな壇に飾られた部屋で、おっしょはんにご挨拶すると、おっしょはんからは「来年もおきばりやす」ちゅう励ましの言葉を添えて祝儀の舞扇をくれはります。
この「おきばりやす」ちゅう言葉、決して自分よか上の人に云うたらあきまへん。「頑張って」ちゅう意味なんどすけど、これは上の者が下の者へ使う言葉どす、間違うてお姉さんにでも云うたりしたら「ちょっとあんた、誰にもの云うてはんのえ。ほんま躾けの悪い妓やわぁ、姉さんの顔が見てみとぉおす」ちゅうてえらい叱られますえ。下の者が上の者を見送るときには「行っといやす、姉さん」迎えるときは「お帰りやす、姉さん」、「お疲れやす、姉さん」ちゅうとこどっしゃろか。
昔の花街は大晦日まで営業したはって、舞妓ちゃんらもきばったはったんどすけど、最近はその年に貯めておいた公休を使うて(毎月2回ある公休日に働いて、代休を貯めておく)クリスマス過ぎには早々と帰ってしまう妓がほとんどどす。昔やと、大晦日の日ぃには「お事多さん・おことぉさん」ちゅうて舞妓ちゃんらがお世話になったお茶屋はんへ挨拶まわりをしたもんどす。で、お茶屋はんの方からは来年もおきばりやすちゅうて福玉をくれはんのどす。ちょっと前の写真を見たら、この福玉をぎょうさんぶら下げて微笑んでる舞妓ちゃんが写っとります。
あと、大晦日ちゅうたら「白朮参り」どすなぁ。この日ぃと祗園祭の宵山だけ、京の娘さんはなんぼ帰りが遅うなっても叱られしまへんのどす。特に白朮参りは夜中に出かけてそのまま初詣でちゅうパターンどっさかいに元旦から朝帰りちゅうことになります。うちらの頃は、着物姿がたんといたはって、髪も結うたはりますさかい、うっかり寝たら潰れてしまうちゅうて徹夜する娘はんが多おした。
境内で売ってはる吉兆縄を買うて、おけら火の火床から火ぃを移して家まで持って帰るんどす。そんとき火ぃが消えんように皆くるくると回してはんのどす。車に乗ったときはウィンドーにはそんどいたら大丈夫。もちろん、電車内に持ち込んでも文句は云われしまへん。で、その火で雑煮をこしらえる。ちゅうのがふつうなんどすけど、悪い子は家帰りまへん。おまけにおけら火で煙草をつけたら、肺ガンにならへんとか何とか云いながら、どこぞの飲み屋はんで燃え尽きてしまうのが恒例どした。
今日は花街とヤクザの世界の共通点のお話どす。
初めは盃ごと、ご存知のように、ヤクザの世界では構成員(組員)になるときにはそこの親分さんから盃を貰うんどす。いわば疑似親子関係の成立ちゅうことになんのどす。この関係ちゅうのは血のつながった実の親子より深いものやて云われとります。後、ほんまに信頼でける者同士で結ぶ五分兄弟盃ちゅうのもおます。これはお互い、相手のためやったら命かけてもかまへんちゅうほどの強い絆どす。
花街では、舞妓ちゃんがデビューする、いわゆる店出しのとき、これは本人にとっても花街にとっても一番のビッグイベントどす。そのときには、誰ぞお姉さんに引いて貰わななりまへん。で、店出しのときにはお姉さんと屋形のお母さん、姉芸・舞妓らと固めの盃を交すんどす。このとき結ばれた関係は花街を出ていくか、死ぬまで変わることはおへんのどす。義理とは言え母・姉・自分そして次に出てくる妹との間に結ばれた絆は、ある意味で実の家族よか強いもんなんどす。こうして次から次へと連綿と受け継がれていくのんどす。
次に義理ごとて云われてる、一般社会で云う祝儀・不祝儀のことどすけど、ヤクザの世界ではこの義理ごとちゅうのはそら重いことどして、どんなことがあろうと義理を欠くようなことはしたらあかんちゅうことになっとります。そのため月のうち半分位はどっかの義理事に出なあかんときもあるそうどす。歌にもおましたやろ「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」ちゅうて。義理場の中で最も大きなイベントは「襲名披露」どす。ヤクザの世界では、それこそ盛大に全国から親分衆を集めてやらはんのどす。いわばその組織の力を誇示するのが目的みたいなもんどっしゃろか。もっとも最近では暴対法のおかげで、昔みたいに高級外車のショー会場みたく派手な集会は殆ど見かけることは無うなりましたけど。
花街では、今月祗園甲部でその「お家元襲名披露」が二日間にわたり催されましたんどす。勿論全国から舞踊の親、いえお家元がたんとお見えどした。花街も義理ごとはたんとあります。先ほどの店出しに始まって衿替え、舞台のお部屋見舞、お家元の襲名、名取のお祝い、不祝儀など、どれも欠かすことの出けへんことばっかしどす。義理を欠くようなことが続くと、誰からも相手にして貰えんようになってしまいます。狭い花街の中でそんなことになったら、もうそこへはいてられしまへん。せやからみんな精一杯義理を果たそうと頑張ったはんのどす。
後、伝統行事についてどすけど一般社会ではとうに無うなってしもた行事に「事始め」ちゅうのがおます。花街では、毎年12月13日、この一年間お世話になったお礼と、また来年も宜しゅうお頼申しますちゅう意味で、芸・舞妓はんらがお世話になったお茶屋はんとかお師匠はんのとこへ挨拶回りに出かけんのどす。お師匠はんからは「来年もおきばりやす」ちゅうて祝いの舞扇を頂くのんどす。
ヤクザの世界でも「御事始」ちゅうて12月13日ごろ、やったはります。ここ数年中止されてる山口組の事始めは有名どす。子分を代表して、若頭・舎弟頭が親分から祝いの盃を貰い、若頭が新年の決意を述べ、その後親分から訓示があるらしおす。ごろちゅうのんは、例の暴対法がでけてから、13日が土・日にあたるとカタギの方が休んではるときは遠慮せなちゅうことで多少日が前後するらしおす。
アメリカかぶれした風習が横行する中、日本の伝統行事を受け継いで、それを実行したはるのが、花街とヤクザの世界ちゅうのも面白いことどすなぁ。今後もどんな時代になろうとこの二つの世界では変わることは無いて思います。
さて、今日は同期の舞妓のお話どす。
あんたとうちとは同期の舞妓 同じ祗園町の庭に咲く〜
前にも書かして貰うたて思いますけど、舞妓ちゃんは年齢に関係のう、店出しがたとえ1日でも早い方がお姉さん(先輩)てなって、この序列は死ぬまで変わらしまへんのどす。けど、同じ年に店出しした妓は、いわゆる同期として先輩とか後輩とかとはちょっと違う親近感を持っとります。昔から○人組とか云われた仲良しグループは大概、この同期の仲間なんどす。年いってからでも、年にいっぺんは集まって旅行したはるお姉さん方もいたはります。そんときは、花街を去った同期も一緒に集まるんどすて。
またあるお姉さんは、「屋形のお母さんとか、自分のお姉さんが亡くならはったときも悲しおしたけど、同期の○△はんが亡くなったときは、ほんまに辛おした。いつも一緒どしたさかいにねぇ、おっしょはんに叱られたときに慰め合うたり、お稽古場では、お互いあの妓には負けとうないて気張ってお稽古したもんどす。男はんの世界で云うたら『戦友』みたいなもんどっしゃろか」て、しんみりと云うたはりました。
けど、最近は舞妓の数がめっきり減って来たんで、中には同期が一人もいてへんちゅう妓も出てきます。そんな妓に聞いてみたら、
「うちだけ同期の妓ぉがいてへんのんは、やっぱりさみしおす」
て云うたはります。お稽古場とか、舞台ではお互いにライバルなんどすけど、普段なんかは、ほんに仲のええお友達。
「なぁ△□ちゃん。お昼何食べたい?」
「せやなぁ、今日もお稽古でおなかへったし、盛京亭はんで八宝菜に酢豚と焼飯。あとビール飲まへん?」
「ええなぁ、けどうちすぐに顔に出るさかいに分かってしまうわ」
「かまへんて、ちょっとぐらいやったら分からへんて」
こないなこと、先輩や後輩とは話しでけしまへん。一緒に買い物行ったり、お好み焼き食べたり、たまにはいけずなお姉さん、好かんお客はんの悪口も(笑)そんな気のおけん同期がいてへん妓は、やっぱしちょっとかわいそどすなぁ。
「○×ちゃん、なんやおとなしいな、誰ぞ他に呼んだげよか」
「ほんまどすか、ほな△□ちゃん、△□ちゃん呼んどぉくれやす!うちと同期なんどす。」
「なんや、また舞妓ちゃんかいな、まぁええわ呼んだげよか」
「ひゃあおおきに、ほなお母はん、すんまへんけど△□ちゃんたんねとぉくれやす」
しばらくしてやって来ると、二人できゃっきゃと賑やかなこと。さっきとは顔つきが違うとります。
「ちょっと、あんたらなんえ、せっかく呼んでくれはったお客はん、放っといたらあきまへんがな」
「すんまへん、お母はん」ちゅう声もハイテンションで、しばらくは相手してくれたかて思うたらすぐに元通り。
こっちも諦めて、おかん相手に話ししとります
「久しぶりに、天麩羅でも食べに行こか」
「○×川はんどすか?そない云うたら長いこと行ってぇしまへんなぁ。ほないつにしまひょ?」
すると今まできゃっきゃと騒いでた妓が振り向いて
「え、天麩羅どすかぁ、うち大好きどすねん。なぁ、△□ちゃんも好きやんなぁ」
「へぇ、うちも大好きどす。おいもさんにあなごさん、それとかき揚げ。あ、よだれ出て来た(笑)一緒に連れっとぉくれやすぅ」
食べもんの話だけはしっかりと聞こえてるみたいどす。
今日は今話題の人物のお話どす。安倍晴明(あべのせいめい)今若い女の子の間で一大ブームとなってるお方どすけど、皆さん知っといやすか?
祗園のおかあはん方は、今でも舞妓ちゃんの店出しの日取りやら、名前やらを安倍晴明はんを祀った晴明神社(晴明はん)までたんねに(※京都弁講座参照)行かはります。 この時代にと思わはるかも知れまへんけど、おかあはん方は小さいころから見てきたことを当たり前のように信じて守り続けたはるのどす。
彼は現代ではさしずめ、ゴーストバスターズちゅうとこでっしゃろか。 桓武天皇が遷都した平安京には、彼が決まっていた皇太子を策謀で引きずり下ろして自分が立太子したり、我が子を皇太子にするために弟はんも濡れ衣をきせてなきものにしたりと、結構あこぎなことしやはったせいで、怨霊・魑魅魍魎・鬼など異界の魔物が日暮れどきになるとぎょうさん出没して、町の人もしょっちゅうえらい目に合うてはったらしおす。
そこで、いつまでも魔物を放っておくわけにはいかんちゅうて、現れたんが当時大陸から伝来した呪術、陰陽道(おんみょうどう)の修業をつんで呪力を持った陰陽師なんどす。中でも一番の力を持ち、「大鬼王・だいきおう」て呼ばれたんが安倍晴明はんどす。一種のエスパー(超能力者)どっしゃろな。なんでもうわさでは、彼の母親は信太山・しのだやまのきつねはんやったんどすて。昔からとびぬけた霊能力を持ってはるきつねとの混血どすさかい、それが彼を希代の陰陽師にさせたんやないかて云われとります。
彼は、鬼を捕まえて来て飼いならした「式神・しきがみ」ちゅうのんを一条戻橋の橋の下にぎょうさん飼うてはって、いるときには連れ出してさまざまな呪術に使わはったらしおす。 魔界のもんを鬼に始末させる。まあ毒は毒をもって制す、ちゅうとこどすやろか。 一方、この陰陽師魔物退治だけやのうて、人からの依頼で誰かはんを呪い殺したりちゅうこともやってたらしおす。その時もこの式神を使うてたんどすて。
今まで元気やったお人が急に亡くならはったりしたら、きっとそばには式神がいてますえ。 皆はんのまわりは大丈夫どすか? え、心配になって来たやてほなら、魔除の呪文をお教えしまひょ。「南莫三曼多、縛日羅赧、憾・ナウマリサンマンタ、バサラタン、カン」これで大丈夫て思いますけどぉ...
祗園をはじめ、花街ではその人ごとに上がるお茶屋はんが決まってるんどす。(宿坊・しゅくぼうて云うとります)最初はどなたか、そこの常連さんに連れて行って貰うしかおへんのどす。で二度、三度と連れて貰うてるあいさに、そこのおかん(女将)の面接が暗黙のうちに行われとるんどす。この人はうちの店に合うてるかいな、店のことを大事に思うてくれはるかいなて、そこでおかんからOKが出たら、晴れて一人でも行けるようになんのどす。そんときから請求が自分とこへまわって来ます。それまでの分は紹介者にすべて行くのんどすけど。
しばらくして少し慣れてきて、「あそこのお茶屋はんに行ってみたいなぁ」て思うても後の祭どす。バーやクラブやったらどこなと気に入った店に行けますけど、お茶屋はんは原則的に一つの花街で一軒だけて決まっとります。せやから自分の宿坊ちゅうのんは運命的出会いみたいなもんどすなぁ。そない思うてご縁を大切にして、うちの宿坊をできる限り応援さして貰うとります。おかんに内緒でよそのお茶屋はんに行こ思うても、まずそのお店で上げてくれまへん。万が一上がることがでけても、その日のうちにみなばれてしまうんどす。IT革命以前に花街の情報網は進んでおりますえ。
それにそんなことばっかししてると、「廊下とんび」やとか「伯耆の守・ほうきのかみ」とか云うレッテルを貼られてしまいます。そうなると花街では死んだも同然、どこのお茶屋はんも、どの舞・芸妓はんも相手にはしてくれまへん。どこの世界でも信用を築くのんは長いことかかりますけど、失うのんはあっちゅう間どすえ。但し、大きな顔してよそのお茶屋はんに行く方法もおます。「お呼ばれ」ちゅうんどすけど、誰ぞ知りあいに他所のお茶屋はんの常連さんがいてたら、そのお方に連れて貰うのんどす。これやとどこからも文句は云われしまへん。ただし、そこの請求は知りあいのお方へ行きますさかい、後でお返しはせなあきまへんわなぁ。
をどりとかで綺麗な芸妓はん見つけて、「おかん、○×ちゃんいっぺん呼んでぇな」ちゅうても、「ああ、あの妓なぁ、いっつも売れてはるさかいになぁ」とかなんとかはぐらかされて、結局呼んではくれまへん。芸妓はんのしてはるお店でも、「いっぺん△×行きたいねんけど」ちゅうたら「そんなとこ行かいでもよろし」の一言。最初のうちは、なんで出しおしみしてるんやて思うたんどすけど、後になって思うたらその妓はうちには向いてへんとおかんが判断して会わしてはくれはらへんことどした。あんたの甲斐性ではあの妓は無理やとか、合いすぎてはまってしまうと困るやろからとか、口には出さはらへんけど常にお客の立場を考えてくれたはります。
せやから花街では、おかんの云うことに従うてんのが一番どす。自分に合うた遊び方を教えてくれはりますし、危ないとこへは行かさしまへん。あほなことしよ思うてたら「そんなあほなこと、せんとぉきやす」て叱られます。これにはええ年した男はんも、立派な肩書のお方も皆おとなしゅう云うこと聞いてはりますえ。まるで自分の母親に云われたみたいに。そう、お茶屋はんちゅうとこはもう一つの我が家みたいなもんどす。自分の好きなもんや、嫌いなことみんな覚えてくれてはって、気ぃ使わんでもみぃんな段取りしてくれはります。皆はんも変なとこで、無愛想な女の子に気ぃ使うて金使うて遊んではるんやったら、いっぺんお茶屋はんへ行ってみたらどないどす?
大文字の送り火も済んで、ご先祖さんも気ぃよう冥土へ帰って行かはりました。今年も連れて行かれんとすんでほっとしとります。大文字が済むと、京の町にはなんや秋の気配が遠くに感じられるようになってくんのどす。日中はまだまだ暑いんどすけど、朝夕の風がひいやりとして心地よろしおす。
この頃に京の町中では「地蔵盆」ちゅう催しがあんのどす。これはどんなもんかいなて云うと、京の町内にはそれぞれ、お地蔵さんが祀ったありましてそのお地蔵さんの世話は町内で持ち回りですんのどす。ちなみにうっとこの町内は六地蔵が祀ったあります。なんで地蔵菩薩を祀るのかちゅうと、
これはこの世のことならず 、死出の山路の裾野なる、さいの河原の物語〜
で始まる「地蔵和讃」にあるように、小さい子供が死ぬと親不孝者と云われて賽の河原で石を積む罰が与えられんのどす。で、せっかく苦労して積んだ石を夕方になると鬼がやって来て壊してしまうんどす。そのときに地蔵菩薩が現れて衣の下に子供をかくまってくれるちゅうお話どす。つまり、地蔵菩薩は子供達の守り神ちゅうことなんどす。せやから各町内には必ず祀ってあんのどす。
そのお地蔵さんの縁日にあたる8月24日前後に各町内の地藏さんの前や店先・ガレージなんかに縁台をこさえて、子供らは一日中お菓子には不自由せえへんちゅうイベントなんどす。勿論、お寺さんが来てお経をあげたり、大勢で輪になって直径数メートルもある大きな数珠を念仏を唱えながら回していく「数珠回し」とかいった儀式もあんのどす。主役はもちろん子供なんどすけど、大人向けにも福引きやとか盆踊りやとか企画したはるとこもぎょうさんおました。
ただ、昨今の少子化のせいと、子供らがあんまり喜ばへんようになったため段々とこの地蔵盆が下火になってきたんは寂しいことどす。祗園祭みたいに、観光化したビッグイベントとはまた違おて、地域に密着したイベントどすさかいに。うちらの子供のころは一日中そこへ集まってトランプしたり飲んだり食べたりと騒いでたもんどす。で、この地蔵盆が済んだらあわてて夏休みの宿題に追われたもんどした。
あんだけうるさかった蝉の声もいつのまにやら聞こえんようになって、入れ替わるようにすだく虫の音がゆく夏を感じさせて、なんやもの悲しゅうなってきます。舞妓ちゃんの花火やらすすきやらの花簪もお終い。もうじき秋どすなぁ...
なんやどさくさに紛れて自民党の大勝利に終わった今回の選挙どしたけど皆はん、ちゃんと投票に行かはりましたか?
「○△ちゃん、こないだの選挙行ったか?」
「へぇ、ちゃんと行って来ましたえ」
「阿呆やなぁ、そんなときは『うちまだ選挙権おへんし、行ってぇしまへん』て云わな年ばれるがな」
「あっ、ほんまどすなぁ、これから気ぃつけよ」
最近の舞妓ちゃんは高校を出てから来はるんが多なってきたんどす。親御はんが、娘の希望に百歩譲っても「せめて高校だけは出てからに」とか云うてはるんかも知れまへん。娘はんの方も、舞妓ちゃんになるて云うたけど、もし挫折したら中卒では社会復帰でけへんさかいて思うてはるのか...
昔は「学校行きさん」ちゅうて中学に通いながら仕込みはんをして、(もっと昔は小学校に)卒業と同時に店出し、その年の都をどりには出てたらしおす。せやから殆どの舞妓ちゃんは10代ちゅうことどしたんやけど、今は高校出てから仕込みさんを一年して、それから舞妓ちゃんになるもんやさかい、店出しして2・3年もしたら成人してしまいます。成人すると、その年の始業式の席で発表されるんどす。成人舞妓ちゅうて...「なんや嬉しいんやら、照れ臭いんやら複雑な気持ちどすぅ」
屋形のおかんとか姉芸妓はんから「年聞かれたら、16やて云うとくんやで」て云われてても、さいでん(さきほど)みたいに、ついぽろっとボロが出ます。もっとも何も聞かんでも、どうみても二十歳過ぎやろちゅうしっかりした妓もいてますけど...その訳は、昔は今と違うて、ニュースソースが少のおした。それに加えて屋形でも舞妓ちゃんには世間のことは何も教えまへん。せやから大根が1本いくらするとか、世の中のことは何にも知らん「無菌状態」に創られていったんどす。
ちゅうのも、昔は「おぼこさ」が舞妓ちゃんの命どした。年も小さいさかいに夜も更けてきたら宴会の席でもいねぶりしてる妓が多かったらしおす。あくまでもお座敷の飾り物・人形みたいなもんどす。「おおきに」「おたの申しますぅ」の二言ですべて通るようなのどかなもんどしたんやろ。
今の舞妓ちゃんはそうやおへん。芸妓はんにも負けん位場持ちのええ、しっかりした舞妓ちゃんもいたはります。カラオケも歌うし、お酒も口にしはります。せやから、お客はんの中にも「呼ぶのんは舞妓ちゃんだけでええわ」ちゅうお方もいたはります。いつの間にやら、「芸妓はんの添えもん」から「舞妓ちゃん」ちゅう別なジャンルを確立したようにも思えます。
加えて昨今のアマチュアカメラ爺・婆達が舞妓ちゃんの心の火に油を注ぎます。彼らは道で芸妓はんと舞妓ちゃんを見かけたら、必ずちゅうてええほど舞妓ちゃんの方にレンズ向けたはります。「そんなんよか隣の芸妓はんの方がなんぼか値打ちおすえ」、て思うこともしばしばどす...周りのもんも、本人も「舞妓ちゃんはあくまで、ええ芸妓はんになるための研修期間」ちゅうことを忘れたらあきまへんなぁ
久しぶりに宿坊(自分の行きつけのお茶屋はんのこと)へ顔を出したら、「○×はん、ぎょうさん来てまっせ」ちゅうておかんが団扇を一抱えほど持って来はりました。毎年、芸・舞妓はんらが贔屓筋やお茶屋はん、自分の行きつけのお店なんかに配らはる名入りの団扇どす。毎年おんなじもんが配られて来るのんどすけど、かと云うて、古いのん捨てるのもなんや悪うて...そうこうしてるうちに家中団扇だらけになってしまうんどす。
誰か、欲しいて云わはる人には差し上げてるのんどすけど、それでも一年は持ってんと、もし途中で辞めはったら来年はそのお姉さんのは手に入りまへんさかい。あと、妓籍を去らはったお姉さん方のは大事に取ったありますえ。また、贔屓のお姉さん方のんを集めて、屏風に表装して貰うたりしとります。30年程経ったら値打ちが出てきますやろ。もしうちが生きとったら(笑)
この団扇、祗園の中ではようお店に飾ったぁんのを見かけます。そのお店が花街関係者のお店やったら間違いはおへんのどすけど、あんまり詳しゅうないとこやと、何でもかんでも順番も考えんと飾ったぁるのをたまに見かけることがおます。勿論飾るときも年功序列どす。上の人が上に来なあきまへん。舞妓ちゃんの下に芸妓はんのが飾ったぁったりしてるとこ、本人が見つけたりしたらきっと来年そのお姉さんからは届きまへんやろなぁ(笑)
出たての舞妓ちゃんで、大体100〜150本、大きなお姉さん方で大体2〜300本ちゅうとこどっしゃろか。自前のお姉さん方は勿論自分で払わんなりまへんさかい、結構な出費になるんどすて。メーカーは、4、5軒おまして、それぞれお姉さん方は自分の気に入ったとこでこさえたはります。形はどこも一緒なんどすけど、字体や字の色合いが微妙に違うとります。「やっぱり、□○はんのんがええな、△×はんのは色に品がおへん」「いや△×はんのが艶やかででええわぁ。□○はんとこのんは色がなんやじじむそおすえ。」と、まあ自分のんが一番ええて誰もが思うてはるのんどすけど...
舞妓ちゃんやら年明けてへん(年季奉公が終わってない)芸妓はんやらは、屋形から支給されるんで、みなおんなじ屋形の妓はおんなじとこで作ったもんを配ったはります。白地に朱で表には自前はんは自分の紋を、屋形にいてはる妓は屋形の紋、ほんで裏には名前が入るんどす。これも自前はんは、自分の本姓を右方に小そうに、真ん中に大きゅう妓名を書くのんどす。屋形にいてはる妓は、本姓のところに屋形名が入るんどす。
最近、四条通の土産もん屋はんなんかでも売ってるとこがおますけど、これは販売用のもんどして本物とはちょっと違うとります。先ほどの本姓・屋形名が入るところが「祗をん」となってんのどす。けど知らん人に見せても分からしまへんやろし、「これ、○×ちゃんから貰うてきたん」ちゅうて見せびらかすにはええ京土産とちゃいますやろか?あと、自分の名前で作って貰うこともでけますえ、勿論一本からでもOKどす。京へお越しの折りには探してみとぉくれやす。
皆はんもテレビやなんかでいっぺんは観たことあるて思います。祗園祭ちゅうたら、皆はん思いつかはるのんが、豪華絢爛な山鉾巡行どっしゃろ、けど実際はこれは八坂はんの神事やのうて、各鉾町の、云うたら町衆のお祭なんどす。八坂はんのお祭りは別に、同時進行してるのんどす。メインは、神輿が八坂はんを出発する17日の神幸祭と、還ってきはる24日の還幸祭どすやろか...約一月間かけて行われる長〜いお祭なんどす。
元々、この祗園祭は「祗園御霊会・ぎおんごりょうえ」て呼ばれ、昔疫病が流行したりすると、それを起こすて思われてた疫神、つまり御霊の退散を祈願して、祗園舎(今の八坂神社)の神輿を担ぎ出し、二条の神泉苑まで練り歩いて、疫神退散の御霊会をしたんが始まりやそうどす。ちなみにこの神輿を担ぎ出したんは、祗園舎だけやのうて、今宮神社でも疫病が流行ると神輿を出し、近くの船岡山で御霊会をしたんどす。地名から紫野御霊会て呼ばれとりました。
「日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。」
八坂神社のHPにはこんな風に書いておすけど、実際には素戔嗚尊・すさのおのみことは、その悪行が過ぎて高天原から追放された神さんどす。そのひどさにお姉さんの天照大神・あまてらすおおみかみが怒って天岩戸に隠れてしまわはった話は皆はんよう知っといやすやろ。その素戔嗚尊と、これまた疫病の元みたいな牛頭天王・ごずてんのうとが同一化のして祀られたんどす。
せやから、祗園舎の神輿を神泉苑まで担ぎ出して、御霊会をするちゅうのんは、他でもおへんこの素戔嗚尊に怒りを静めて貰うて疫神に退散して貰うちゅうことなんどす。疫病は今でこそ、細菌等で起きるもんやちゅうのんは皆知ってはりますけど、昔の人はそないなこと分からしまへんさかい、きっと御霊、すなわち怨霊が引き起こすもんやて思うたんどす。そう、素戔嗚尊はんも高天原を放り出されてきっと怨み持ってはったんやて思いますえ。
先月、ひとりの舞妓ちゃんの衿替えがおした。今回は衿替えのお話どす。
「衿替えて何?」て云わはるお方のために説明しますと、読んで字の如く衿を替えることどす。え、「それだけではわからん」てつまり刺繍をほどこした紅いのんやら白いのん、一枚がうん十万もする舞妓ちゃんの派手な衿から真っ白の芸妓はんの衿に替えることどす。そう、舞妓ちゃんから芸妓はんになる儀式を云うのんどす。昔は旦那が出来ると衿替えしたもんどすけど、今はそういったことがおへんさかい、店出ししてから4・5年位たつと屋形のお母はん、姉芸妓らが相談して決めはるのんどす。
もちろん、個人差がおますさかい、ちいそうてかいらしい妓は長いこと舞妓ちゃんしてますし、大人びて(決してふけて、ではおへんえ)見える妓は早いとこ芸妓はんにならはるのんどす。「○×ちゃん、そろそろ衿替えちゃうのん?」「をどり済んだら衿替えやて思うてたのに、お母はんが来年にしぃて云わはるねん。もうかなんわ」「そうかぁ、けど○×ちゃんはおぼこう見えるさかいええやんか。芸妓はんなったら大変やで。若手の芸妓はん仰山いたはるさかい、今までみたいに売れへんで」「けど、うちよか下の妓ぉかて衿替えしてはって、芸妓はんから『姉さん』て呼ばれんのもなんや体裁悪おすえ」
花街では、年令は関係おへん。たとえ一日でも早う店出しした方が姉さん、これは生涯変わらしまへんのどす。せやから、後から店出しした妓が先に衿替えして芸妓はんになっても、先輩の舞妓ちゃんに会うたら、「姉さん」て呼ばんなりまへん。お座敷なんかで、事情の解らへんお客はんがそれを聞いたら「え?」ってなりまっしゃろなぁ。
衿替えの一週間前位から、舞妓ちゃんは黒紋付に三本襟足の正装で、髪は先笄(さっこう)という江戸時代に若妻がしたていう髪形に結うて、お歯黒をさすのんどす。これは昔の舞・芸妓はんは今みたいに自由に結婚とかでけしまへんどしたさかい、かわいそやちゅうていっぺんは若妻の恰好さしてあげたんやそうどす。この恰好でお座敷を廻り、祝い事の時に舞われる「黒髪」ちゅう舞を舞うのんどす。少女から大人へと変わるひととき、その艶やかさに観る者は思わずぞくっとしますえ。舞妓ちゃん最後の日には、髷の先にしっぽみたいに飛び出た髪の元結を、昔は旦那はんが切らはんのどすけど、今は屋形のお母はんの仕事どす。
当日は、朝から姉芸妓・妹芸・舞妓・屋形のお母はんらが集まって、あわただしく準備が始まるんどす。黒紋付に二重太鼓、真新しい鬘をかぶると、きんのまでおぼこい顔してたんが急に大人になったみたいどす。お母はんの切り火を背にして男衆はんに連れられ、80数軒あるお茶屋はんに挨拶回りどす。「お頼申します、お母はん」今日はこの言葉をなんべん口にするんどすやろなぁ。挨拶が一通り終わって屋形へと戻ってくると、お姉さんや姉妹達、お母はんらと「おちつき」て云われる祝膳に向います。お母はんから「よう辛抱しやはったな、これからもおきばりやす」と声かけられると、きんのまでの事が頭ん中を走馬灯のようにめぐって、思わず涙が頬をつたうのんどす。気持ちも落ち着いたら、さあ今夜から一番新しい芸妓としての生活が始まるのどす。
毎年、ゴールデンウィークが過ぎると鴨川べりのお店で、川に張り出した床・ゆかを出さはります。6月1日から9月末までやったんが、去年からゴールデンウィークのお客はんをあてこんで5月1日から、上は二条から下は五条まで約70軒のお店が営業したはります。
この床、写真とかで見るといかにも涼しげで、隣に舞妓ちゃんでも侍らしてんの見たら、なんちゅう贅沢なて思わはりまっしゃろ。ところが、実際に行ってみはったら分かるて思いますけど、とにかく暑い、虫が多い、ビールはすぐにぬるなるし、お刺し身は干からびてきます。
「○×ちゃん、今度ご飯食べしたげよか?」
「いやぁほんまどすか?うれしおすぅ。で、どこ連れとぉくれやすのん?」
「せやなぁ、△△の床でもどうや?」
「×○はんのいけずぅ、それやったらうちはよろしおすわ。他のお姉さん誘うとぉくれやす」
ちゅうかんじで、特に舞妓ちゃん等には不人気どす。そらあないな格好して、座ってたらたまりまへんで。頭は一週間も洗うてへんさかい「お姉さん、頭痒ぃわ」ちゅうて簪の先でカリカリ、「なんや白粉が汗で流れて来そうどす」ちゅうて部屋に避難...舞妓ちゃんにとって、一番嫌いなお座敷どすて
そんなんで、地元の者はめったなことでそないなとこ行かしまへん。他所からのお客はんが連れて行けて云われて、百歩譲って行くんやったら夜の9時過ぎどすなぁ、料理はいりまへん。よう冷えたビールを少しづつ運んで貰う。虫が嫌いなお人は連れて行かへん、ちゅうとこどっしゃろか
おんなじ床でも、涼しいとこもおす。そう貴船・きぶねの床どす。ここは市内と比べて気温が5度は低おす。おまけに鴨川の床は、川面から3メーターくらい高いとこどすけど、ここは床から足を水につけられる位どす。ほんでその水がまた冷とおすねん。そら真夏の暑い日ぃに来て、足水につけながら「すき焼き」食べたら美味しおっせ。まわりに舞妓ちゃんがおったら云うことなしどす。貴船のある料理屋はんでは、一見さんでも舞妓ちゃんを呼べんのどすて。(宮川町の舞妓ちゃんどす)
舞妓ちゃん二人・90分の基本料金が65,000円
1名追加で31,000円
30分追加ごとに各5、000円どすて。 あ、もちろん料理は別料金どすえ〜
興味のあるお方はどうぞ
長かった「をどり」もようやっと終わり、京の町にはいつの間にやら初夏の風に鯉のぼりが泳いどります。 舞妓ちゃんらは久しぶりにまとまったお休み貰うて、(大体1日から6日まで)それぞれ、郷へ帰ったり友達と旅行したりと羽のばしてはります。「○×ちゃん、今度のお休みどないすんのん」「うちは、お正月帰れへんかったし、家に帰ろ思うてんねやけど。△×ちゃんは?」「うちは□×ちゃんとディズニーランド行こ思てたんやけど、うっとこのお姉さんが『北海道行くし、あんたもついといない』て云われてしもてん。うっとこのお姉さんだけやとまだええんやけど、他に大きいお姉さん2人も行かはるらしいし、そら気ぃ使うしかなんわ」
舞妓ちゃん・自前になる前の芸妓はんらのお休みは、祗園甲部では第二・第四日曜の月2回どす。 あとはをどりの後に5〜6日、七月の末ころに3日位の夏休み、暮れは大体25日くらいからお正月5日くらいまでのお正月休み、といったとこどす。 多めに数えても年間休日55日くらい。しかも朝8時頃起きてから夜の12時1時までのお仕事。年に120〜130日も休日あって、その上口開いたら「有給休暇、有給休暇」ちゅうたはるどこぞのOLはんに彼女らの爪の垢でも煎じて飲ましてやりとぉおす。
舞妓ちゃんにならんと、そのまま高校へ行っとったらお休みもぎょうさんあって遊びほうけていられたもんを、なんで彼女らはわざわざ苦労を求めて祗園町へ来やはったんやろか?てふと思うときもおす。 昔みたいに祗園に生まれ、何の疑問も持たんと舞妓になるちゅう時代やおへん。 他所から来やはるお方はみな、舞妓姿に憧れて来はったんが殆どやて思います。 せやから厳しい仕込みさんの修業にびっくりして辞めてしまう子も仰山いたはります。けど、その中にも厳しい修業を終え、舞妓ちゃんにならはる人も少のおすがいたはります。 店出ししてからはまた舞を始め、いろんな芸事の修業が待っています。ここでも挫折して辞めはる舞妓ちゃんもいたはります。
今の組合長の竹葉さんも、舞妓に憧れてならはったんどす。すでに在籍五十年を越えてはりますが、「この世界しか自分の生きる世界はおへん。辛いと思うたことはおへんし、これからもずっと芸妓を続けとぉおす」て云うたはります。今の舞妓ちゃんも、でけたらお姉さんみたいな芸妓はんになって欲しいて思います。 あしたの祗園町は、みなあんたらの背にかかってますのえ。
今、都をどりは4月1日から30日まで、1日4回の公演どす。始まってから半分を過ぎ、をどりもようやくこなれてきた頃どす。この間、舞妓ちゃんは全員25日、若手から中堅の芸妓はんは20日、舞・お囃子に出演しはります。大きな姉さん方は10日間、舞だけに出演しはります。(歳いくとしんどい)地方はんは、15日どすけど大きなお姉さんにはしんどい事どす。立方はんと違うて、1時間の公演中はずっと座り続けてんなりまへん。今年は、素人さんが4人出てはりますけど最後まで頑張れますやろか?
もっと大きな姉さんは都をどりには出やらしまへん。大体の目安は還暦くらいどっしゃろか。後は温習會だけちゅうことになんのどす。地方の幸長はん、立方の小まめはんとか里春はんみたく、もう今は舞台には立たはらへん現役の芸妓はんもいてはります。(皆さん、80才以上どす)
朝は舞妓ちゃんらは、10時頃に楽屋入りします。大きい姉さんなんかは、もう少し遅うにご出勤どす。せやから、髪結いさんには朝6時頃から行かんならんときもおす。で、4回の公演済まして急いで着替えしてお座敷を駆け回って終わるのんが十二時、一時。中には過労で倒れはる妓もいたはりますさかい、ほんま体力が勝負のひと月どす。
部屋は立方はんは、総踊りと中挿の組とで別れてます。後、地方はんの部屋、浄瑠璃はんの部屋に別れとります。このお部屋、中で着替えしたり、化粧したりしてはるんやし原則男子禁制どす。え、どないしても入ってみたいて。まあ手だては無いことはおへんけど、歌舞練場の裏口あたりで待ってて出前のにいちゃんを捕まえ、お金つかまして衣装と出前の弁当貸して貰いますねん。ほなら、大きな顔して楽屋へ入っていけますえ。試してもろてもよろしいけど、責任は一切持ちまへんので...。
若い舞妓ちゃんらにとっては、このをどり期間中しんどいのはしんどいのんどすけど、みんな集まってなんや修学旅行に来たみたいな感じでわいわいきゃあきゃあ云うとります。おまけに部屋の中は、支給のお弁当にご贔屓さんからの差し入れ、大きいお姉さんからの振舞と食べ物だらけどす。「お箸一膳あったらひと月食べていける」て云われるぐらいどす。食べ盛りの舞妓ちゃんにとったら、猫にかつぶし、かっぱにきゅうりみたいなもんどして、なんぼをどりで体力使うたかて、をどりが終わる頃にはしっかり身についとります。「をどり肥り」ちゅうとこどすな。まぁ、ひと月間ご苦労さんどすぅ。
いつの間にやらお茶屋はんの門々に、歌舞会から配られたつなぎ団子に都をどりて書かれた提灯に灯が入って、祗園町は段々と華やかさを増してきます。そう、今日から「をどり」が始まるんどす。
この都をどりの歴史はて云うと、明治5年に初演されたもんどす。当時、明治天皇はんが東京へ行幸しはって、京の町もなんやさびれた感じに包まれとりました。何か活気づけるもんはないやろかて云うて明治4年秋に開いたんが、日本最初の博覧会「京都博覧会」どす。
そのときの附博覧(余興)ちゅうことで、一力亭の主、九世杉村次郎右衛門はんと三世井上八千代はんが伊勢の「亀の子踊り」をヒントにして創案しはったんが都をどりの始まりなんどす。それまでは、座敷舞が殆どどしたさかい宝塚のレビューみたいな「総をどり」は当時としてはそら画期的なもんどした。
都をどりの名前も最初は、「みやびをどり」にしよちゅう話やったんを、井上八千代はんが、「みやこをどり」はどうどすやろちゅうたところ満場一致で決まったらしおす。で、三世が「皆はんがお考えやしたみやびていう名はうちが頂きます」それ以後、井上流の舞の会は「みやび会」てなったんどす。
肝心の第一回の都をどりは、そらもう大盛況どした。気ぃ良ぅした杉村はんが八千代はんに「褒美は何なりと」て云わはったところ、さすがは八千代はんしっかりしたはります。「ほな、今後祗園の舞は井上流だけにしとぉくれやす」て云わはったらしおす。そんな訳で、今でも祗園甲部の舞は井上流だけなんどす。
今は、一日4回公演どすけど、ちょっと前までは5回、ひどいときは6回公演ちゅうのもあったらしおす。そのとき歌舞会から差し入れでくれはんのが「にぬき一つ(京都弁講座参照)」どしたんやて。大きいお姉さん方、いまだに根にもったはりますえ。会期も前は48日ちゅう長期間のときがあったんどすて。勿論その間はお休みなしどす。連日公演済まして、着替えもそこそこにお座敷に走って行かはります。(労基法はここでは通用せえへんのやろか?)祗園のお姉さん方はほんまお元気どすぅ。
京の今年の桜の開花予想は3月31日らしおす。もっともこの桜ちゅうのは「染井吉野・ソメイヨシノ」のことどして、里桜、山桜なんかはもうちょっと後、牡丹桜は4月中旬以降ちゅうことになります。
うちはこの染井吉野はあんまし好きなことおへん。これは明治初期、東京の染井村の植木屋はんが大島桜と江戸彼岸桜とを交配さしてるときに偶然うまれた雑種らしおす。雑種のせいか育てやすく繁殖力も旺盛で、花も葉が出るまえに咲きますさかい、みた目が派手どす。そんなことであっちゅう間に全国に拡がったんやそうどす。
それまでの桜ていうたら、たいがい八重桜が主体やったらしおす。せやから、遠山の金さんの桜吹雪は一重ではおかしいんとちゃうやろか?太閤はんが醍醐で大茶会しはったときも、きっと八重桜を観てはったんやて思います。
京都市もご他聞にもれず、せっせと染井吉野を植えたはりますけど、京の桜ちゅうたらやっぱり「紅枝垂れ・ベニシダレ」白川あたりには少ぉし植わってますけど...あと、「細雪」の舞台となった、平安神宮・神苑のもあでやかどす。風にそよぐ枝垂れに、あでやかな花が揺れるとこなんかよろしおすなぁ。舞妓ちゃんの背景にはぴったしどす。
けど、うちの一番好きなんは山桜どす。緑々した山道でふと目にした紅みを帯びた葉にかくれた白い花には、思わずはっとさせられますえ。けど、これは町中へ植えても似合わへんて思います。名前通りに、山の中でひそと咲いてるのんが風情があってよろしおす。
さて、皆はんのお好みの桜はどんなんどっしゃろか?
よう耳にする京の悪口に「一見さんおことわり」ちゅうのがおます。今でも、京の花街では当然のしきたりとしてまかり通ってます。
他所から来たお方には、これがなんや差別されてるようにとられるんどすが、決して差別してるわけやおへんのどす。 初めて会うたお客さんは、好みも性格もまったくわからしまへん。 せやからどないなもてなしをしたらええのんかわからしまへんのどす。 結果、「なんやつまらん店や」て思われるのはプライドが許しまへん。 それやったら、最初からお断りした方がええちゅうことどすねん。
それと初めてのお方やと、どないなお方かもわかりまへんし、万が一大事なお馴染さんにご迷惑かけたら困ります。 京のお店では(特にサービス業)お馴染さんをことのほか大事にします。 京の商売の原点ちゅうのは、細く長く続けていくことなんどす。 決して一過性のもんは好みまへん。 お客の方もいったんお店が決まると、決して他所に浮気などせんと「○○はどこそこのん」と何代もわたっておつきあいさして貰います。
不特定多数のお客さんにいかに多く販売するかが商売の原則かも知れまへん。 マニュアル通りのサービスしか受けられんお店で買物したり、食事したりするのが平気なお方やとそれでもよろしおすけど、うちはやっぱり、お店の人と気が通じ合うたとこの方がよろしおす。 それに馴染みになって年が経つにつれ、うちの好みも分かってくれてはるし、嫌いなもんは決して勧めはらしまへんし、好きなもんがあったら、ちゃんと声かけてくれはります。
店によったら、行くと「お帰りやす」、帰るとき「いっといやす」て云うて、まるで我が家のようなもてなししてくれはります。ほな、お馴染みはんは最初どないして店に来たんや?て云われると、確かに最初は誰かに紹介して貰わななりまへん。 けどまめに探せばどこぞに知りあいがいやはるて思いまっせ。
皆はんは京都市の地図見て、「何かおかしい」て思わはらしまへんか?そう、右側に左京区、左側に右京区がおます。
上京・下京は解るて思いますけど、右左はおかしいて思わはりまっしゃろ。実はこれ、御所の紫宸殿から見て(天子は南面すと云うしきたりで、御所の紫宸殿は南向きどす)、右左となるわけどす。上ル・下ルは地図を壁に貼って貰うたらよう解ってもらえますぅ。三条・四条も、御所が起点(0)で南に向こうて一条から十条まであるのんどす。
ひな人形も京都では向かって右がお内裏さん、左がお雛さんで、よそとは反対になっとります。もちろん右・左大臣も、橘・櫻もおんなじどす。今度御所へ行かはるときは気ぃつけて見てみとぉくれやす。
今月の20日に、大石内蔵助はんゆかりの祗園一力亭で「大石忌」ちゅうのんがおます。これは何かて云いますと、大石はんが切腹しはったんが元禄16年2月4日。太陽暦では3月20日になるらしおす。この日大石はんを偲んで、井上八千代はんが「深き心」、あと芸・舞妓はんらで「宿の栄」ちゅう舞を手向けはるのんどす。
ちなみにこれは、招待客だけどすので一般には公開されてまへん。え、「あんたは行ったことあるのんか?」どすて。いえ、うちも誘われたんどすけどまだ行ったことはおへん。これが済んだら、をどりも目の前どす。祗園町にいっぺんに春がやって参ります。
立春も済んだちゅうのに、まだまだ寒おすなぁ。云うても京では、奈良のお水取りと比良八講が済まんことには春は来まへんのどすけど。うちは人一倍寒がりやさかい、今の時季が一番辛ぅおす。
けど舞妓ちゃんらは、あんだけ襟抜いてたらさぞかし寒いやろて思いますのやけど、聞いてみたらそないに寒ないらしおす。段々慣れて襟足が鍛えられ、寒さを感じんようになるんどっしゃろか?それともそこだけ皮膚が厚くなるんやろか?毎日襟抜いてはる舞妓ちゃんや若手の芸妓はんはええんやけど、たんまに裾引きしはるお姉さん方は大変らしおす。水で溶いた白粉塗るだけで「ひやぁ」外出たら「おーさぶぅ」で風邪引いてしまわはります。
暖房の効いた現代でこれどすさかい、昔の芸・舞妓はんらは大変やったて思います。人間、段々と軟弱になってしもうてるんやろねえ。うちも小さい頃は、雪降ったら犬みたいに外走り廻ってたもんやのにねぇ。今はすっかり猫になっとります。せやからよほどの事がない限り、冬場お姉さん方は裾引きなんかしはらしまへん。(夏場も頭が蒸れるちゅうて嫌がらはりますけど)一月の始業式でもある程度の歳(大体40才?)なると許して貰えるらしおす。でもどなたはんが決めはるんどっしゃろか?
春が来るまでもう少しの辛抱どす。皆はんも風邪ひかんようにしとぉくれやす。
7日、八坂女紅場学園では日曜日にもかかわらず、例年通り始業式がおました。(こういう頑固なとこがよろしおす。)第一正装の黒紋付きに鳩のとまった稲穂の簪を芸妓はんは左に、舞妓ちゃんは右にさして、会場の祗園甲部 歌舞練場に集まって来やはります。
この鳩には、最初眼が入ってまへん。のっぺらぼうの白鳩どす。で、自分で片方の眼を描いて、もう片方を自分の好いた人に入れて貰うと、想いが叶うて云いますのんどすが、さぁ効き目のほどはどうどっしゃろ?
この日、去年ぎょうさんお花売らはった芸・舞妓はんらが、組合長 の竹葉さん姉さんから表彰状と金一封を手渡されますのえ。今回の一等賞は二年連続で豆茂ちゃんどした。 ちなみに金一封て、一等賞で5万円どす。まあ名誉賞ちゅうことどすやろね。
この学園、不思議なことに始業式はおますけど、終業式がおまへん。そのうえ入学もなければ卒業式もおへんのどす。妓籍に入ったときが入学式、やめるときが卒業式ちゅうことになります。 中では何をしてるのか?て思わはりますやろ。そらまたいつかの機会に詳しゅうに...
全員黒紋付きちゅうのは、この日と八月の八朔の日の二回だけどす さかい、それお目当てのカメラ爺・婆がハイエナのように周りを囲んどります。 今年は終わる頃から雪が激しゅうなって、皆はん大変やったて思います。いえ、カメラ爺・婆は好きで来たはるんやからどないなろうがええのんですけど、挨拶回りに行かはる芸・舞妓はんらの方どす。
「○○ちゃんが帯にはねあげた」、「××はんが櫛落した」
と、初日からおかあはんも大変どす...