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ごまめの歯軋り 都をどり
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矢印 2002年へ
いつの間にやらお茶屋はんの門々に、歌舞会から配られたつなぎ団子に都をどりて書かれた提灯に灯が入って、祗園町は段々と華やかさを増してきます。そう、今日から「をどり」が始まるんどす。

この都をどりの歴史はて云うと、明治5年に初演されたもんどす。当時、明治天皇はんが東京へ行幸しはって、京の町もなんやさびれた感じに包まれとりました。何か活気づけるもんはないやろかて云うて明治4年秋に開いたんが、日本最初の博覧会「京都博覧会」どす。

そのときの附博覧(余興)ちゅうことで、一力亭の主、九世杉村次郎右衛門はんと三世井上八千代はんが伊勢の「亀の子踊り」をヒントにして創案しはったんが都をどりの始まりなんどす。それまでは、座敷舞が殆どどしたさかい宝塚のレビューみたいな「総をどり」は当時としてはそら画期的なもんどした。

都をどりの名前も最初は、「みやびをどり」にしよちゅう話やったんを、井上八千代はんが、「みやこをどり」はどうどすやろちゅうたところ満場一致で決まったらしおす。で、三世が「皆はんがお考えやしたみやびていう名はうちが頂きます」それ以後、井上流の舞の会は「みやび会」てなったんどす。

肝心の第一回の都をどりは、そらもう大盛況どした。気ぃ良ぅした杉村はんが八千代はんに「褒美は何なりと」て云わはったところ、さすがは八千代はんしっかりしたはります。「ほな、今後祗園の舞は井上流だけにしとぉくれやす」て云わはったらしおす。そんな訳で、今でも祗園甲部の舞は井上流だけなんどす。

今は、一日4回公演どすけど、ちょっと前までは5回、ひどいときは6回公演ちゅうのもあったらしおす。そのとき歌舞会から差し入れでくれはんのが「にぬき一つ(京都弁講座参照)」どしたんやて。大きいお姉さん方、いまだに根にもったはりますえ。会期も前は48日ちゅう長期間のときがあったんどすて。勿論その間はお休みなしどす。連日公演済まして、着替えもそこそこにお座敷に走って行かはります。(労基法はここでは通用せえへんのやろか?)祗園のお姉さん方はほんまお元気どすぅ。

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このコンテンツは祇園藤村屋が過去に発行したメルマガ祇園藤村屋電子瓦版の記事を再構成したものです